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鯨学校の由来
男鹿市船川港船川字小沢田 藤井春吉
 由 来
写 真
 男鹿では、毎年ハタハタの接岸期が近づくと、海の生物たちの大漁祈願と、供養祭をそれぞれの地区で行っている。例を上げると、北浦日枝神社、船川芦沢神社、船川神明社等である。しかし、供養塚として建てられているのは、船越一向地区の沿岸近い松林に、明治35年と38年に、安田惣九郎等が大漁に感謝し、殺傷の許しを乞うという意味で建立されたのである。秋田藩梅津政景日記に元和6年(1620)男鹿南磯女川村より、鯨五六十駄久保田城お台所へ献上。寛永6年(1629)3月7日男鹿より24駄お台所へ、寛永8年((1631)2月27日山本郡浅内村にいる奉行真崎彦八殿申越しで男鹿より11駄と9駄をお台所へ。寛永9年(1632)2月17日男鹿より100駄お城へ献上している。300年以上前のことであるが、いかに鯨が多くいたものか当時を思うのである。またこれらは全て馬で運んだようである。
 下って明治22年3月10日未明、南平沢村、澤木嘉四郎さん、船川村へ所用あっていく途中のことである。鼻子崎の海辺に何か唸る音が聞こえるので、何だろうと思いよく見ると大きな1丈あまりの鯨2、3本這い上がっていた。彼は速やかに船川の用事を済ませ、ひとっ走りに我が家に帰りすぐ船に乗り出してきた。付近を見れば何十頭いるか数知れず、まず船に2、3頭つなぎ、その中に平沢村民20名余りがわれ先にと船で乗り出してきた。このとき午前6時頃であった。このときはじめて鯨であることを知ったのであった。数の知れないほど這い上がった鯨
 
 
生きつ死につ浮沈数知れず。とにかくあまり数多いので獲りきれなかった。平沢村民は面白いやら、楽しいやら、余り大声で絶叫したので、船川村の人たちがこれを聞きつけ、それ一大事と言うより早く、我先にと船を乗り出し、鼻子崎、三本瀬に一直線、辺りを見れば真っ黒な大魚が山のごとく這い上がっているので、初めは境界のことで口論せしが、あまり数多いのと品物の大きいのとで獲りきれず、したがって争いもなく済んだ。平沢村では40本以上浜辺に並べ、この中より大物を2本選び、増川村へ1本、女川村へ1本を進呈したのであった。そして浜辺に並べた鯨を通りの人たちがこれを見て古今稀なることであると、賞賛したのであった。この鯨は皆子どもを宿し、種類はマッコウクジラで、沖の方に何千と遊泳していたが両村の船音に驚き逃げ去ったのである。おそらく女鯨を男鯨が待っていたことといわれている。平沢村では大物を100円余りで売りさばき、そして各家に肉5貫目余り配当したのであった。実にめでたい出来事であった。なお、平沢村民一同で鯨の供養することとなり、霊魂祭には、神主氏子本山高信氏、増川村佐藤茂雄氏、小浜村金峰之助氏、舞子さんには佐藤茂雄氏の内儀、時の村長は澤木長吉氏、そして祭りの当前は澤木長吉、阿部利八郎、澤木吉兵ヱ、佐藤長松、佐藤寅吉、佐藤新三郎等26名で平沢の夷子台に湯釜を建て、祭壇を作り各家よりお神酒を持参礼拝したのであった。霊魂祭済み宿を澤木吉兵ヱ宅に、神主、舞子共に村民40名残らず集まり、大祝い大酒盛りとなり今までにない出来事であったと伝えている。この行事は9日後の明治22年3月19日の行ったということである。
 ところで話は前に戻るが、船川村では、前項に記載したごとく、明治23年3月10日未明、平沢村民等大騒ぎして鯨を捕獲しているのを聞きつけた船川村民、それ一大事とばかり急ぎ船に乗り鼻子崎へと一直線、獲るも獲ったりは百十数頭以上を積み帰ったのである。船川村では、思いがけない偶然にも鯨の恵み、感謝の至りであった。それを各家庭に半分を配当し、半分を売却したのであった。当時学校は狭く改築を繰り返したが、間に合わず、村で校舎の新築を計画していたが村の財政では支弁の可能性がなく困っていた。ところが思いもよらない天の恵み、幸いにして売却した代金と寄付金を合わせ、一金370円で船川字泉台46番地に六間の十二間の校舎新築願いを秋田県知事岩崎小二郎殿へ船川村長沢木晨吉氏より提出、そして許可が下ったので、翌年明治23年3月3日より建設に取り掛かり、同年9月14日完成し落成式を行ったのである。船川住民は大いなる誇りとしたのである。
 時代の変遷と人口増に伴って増築となりしが、だんだん敷地が狭く、残念ながら記念の鯨学校が消えることとなり、昭和48年に、船川字漆畑35番地へ近代的新校舎が完成し、船川第一小学校として発足、そして児童たちは先生と共に勉学に励んでいる。鯨捕獲当初、平沢村では、盛大な供養をしているが、船川村では供養の話も聞かず記録もないようだ。子持ちの鯨たちは大集団で這い上がったばかりに哀れな運命をたどったのである。昭和63年3月10日は捕獲して100年となる。鯨学校跡地に、簡単でも将来に向けて紹介板を設置されたらと思う次第である。